「宿題」について考えてみましょう#1

2020年3月30日大幅改訂・ちょっとぐだぐだした論調だったので完全に見直して整理しました

学級担任になったらどの先生も必ず課す「宿題」。「宿題」にまつわるいろんな悩みは常につきません。
そんな「宿題」について考えてみましょう。

目次

「宿題」って必要?

「宿題」について、まず一番に考えたいポイントは「必要か不要か」

いきなりばっさりと極端なポイントから入りましたが、まずはシンプルな入り口から入ることが本質を考える上では重要です。

要不要」。これを考えていく過程で、様々な課題が見えてきて、現状における結論今後の方向性を捉えていくことができます。

逆に、この手の議題を考える上ではまってはいけないのは、前提条件を暗に含みすぎた状態から思考をスタートさせてしまうことです。

すると、前提条件を「暗に」含んでいますので、考えれば考えるほど「暗に」含んでいた条件が後出しじゃんけんのように次から次へとでてきて、結局、現状とほとんど何も変わらない着地点に落ち着くだけの不毛な思考になってしまいます。

前提条件(うちの校区はこんな環境だから、すでに宿題を課す流れになってしまっている、など宿題そのものというより取り巻く環境による条件)は一度置いておく。「宿題」というものそのものの意味、効果、価値などはどうか。また宿題によるデメリットは考えられないのか。と、「宿題」を起点に考える

さて、いかがでしょうか。宿題そのものの意味、効果、価値などについて少し考えてみましょう。

宿題の形式

宿題の形式にはさまざまなものがあります。

  • 計算ドリルや漢字ドリルの類
  • レポート形式の調べ学習
  • 音読・本読みなどの活動
  • その他、音楽会などのイベントに紐付く暗記・練習活動
  • お手伝い(これって宿題っていうのかは微妙ですが、ノリで宿題として出したりしますよね)

ざっとこんなものでしょうか。他にもあるかもしれませんが、結構いろんなバリエーションがありますよね。これらの形式の宿題を出す意味ってそれぞれに目的が違うので一括りにはしにくいですね。とはいえ、「宿題」として課す意味は何なのでしょう。

逆に宿題として課さないならどうすれば良いのでしょう。

ここで、宿題の定義について確認しておきます。

本義としては「前もって示しておいてやらせる課題。」だそうですが、ここでは「学校で担任から『家でして来るように』と課す学習活動。」としましょう。

さて、このように家庭で行う学習活動を学校で指示するわけですが、その意味・意図はどういったものがあるでしょうか。

宿題の意味・意図

学校側が宿題を設定している大義名分として多いのは「家庭学習の習慣づけ」でしょうか。どの課題にも当てはまりそうなもっともらしい理由としてポピュラーかなと思います。

他には学校で足りない演習量の確保、練習量の確保なども考えられるでしょう。ドリルの類や音読、音楽会の楽器練習などはそれに当てはまるでしょうね。

レポート形式の調べ学習などの課題はどうでしょうか。

これは授業で学習したことや、これから学習することを題材に身近な事例を調べたり、詳細を調べたりするなどが考えられるでしょうか。調べる対象が個々に違っており、どういった手段(パソコン、書籍、インタビューなど)を用いるかで学習方法かける時間が変わってくるため、学習活動は家庭学習の時間にふることで学習に個々がかける時間の差を平滑化する目的が考えられるでしょうか。

さて、お手伝いはどうでしょう。これについてはもはや数合わせではないでしょうか。どういった経緯で出すのかによって狙いのある場合もあるかもしれませんが、「明日は校外学習だけど、宿題は毎日課すっていうルールにしてるから軽い何か」みたいな意図でお手伝いを宿題にするといったことは多いのではないでしょうか。(私はそんな課し方をしたことがあります)

こうなってくると宿題の意味より、宿題を課すことそのものが目的になってしまっていますよね。

宿題の効果

では、そうした意図をもって課された宿題にどれほどの効果があるのでしょうか。

先ほどあげた宿題の形式について、それぞれ家庭学習として課すことで得られる効果はどのようなものが考えられるでしょう。

ドリル形式の宿題の効果

計算や漢字学習などはどちらかというと質より量です。パターンを身体にすり込み、頭にすり込んで覚え込んでいく。そのためには一定の学習量は必要でしょう。

もちろん確保できるのであればやればやるだけいいのかもしれません。どの程度以上からいくらやっても効果が薄くなる分岐点がくるのかまではわかりませんが(というか人によるのではないでしょうか)、一定の量はこなすべきなのは想像に難くありません。

少なくとも本人が大方の出題パターンや該当学年で学習する漢字を身につけるに到るまでの演習量はどこかで確保したほうが良いでしょう。

というわけで、これを宿題として課すことによる効果は演習量の確保という目的に対して効果があるように思います。

レポート形式の宿題の効果

レポート形式の宿題としては調べ学習が代表的かと思いますが、要するに正解の形が定義されておらず、個々に設定した課題や目的に応じて一定の様式や結果をもって学習の成果物とする宿題です。

総合的な学習の時間で○○について調べるから自分が選んだテーマの△△について調べる。」などが考えられるでしょうか。

これについては、宿題として取り組んだことで何かしらの能力が着くというよりは、限られた授業時間で一定の成果をもって学習完了とするための時間稼ぎとして宿題を使っているというのが正直なところではないでしょうか。

とすれば、子どもによってレポートを書く時間や調べる時間はまちまちで、この振れ幅が非常に大きいため、学校活動の時間外で行うというのは非常に効率が良いかもしれません。

宿題として課すことで進捗の差を平滑化することができ、足並みを揃えて授業が進められそうですね。効果があると言えるかもしれません。

音読・本読みなどの宿題の効果

そもそも音読する意味って何なのでしょうか。ここでは本読みと言葉をあえて分けてみましたが、いわゆる黙読は内容理解には十分であるでしょう。対して音読は、口から音に変え、自分の声を耳で聞きます。

一連の流れから日本語の語感を耳で感じ、語句の字面から伝わる意味以上のニュアンスを読み取れたり、逆に字面だけでは表現しにくいニュアンスをのせて音に変えることで文章への理解が多面的にできるのではないでしょうか。

また、昔がどうだったかはさておき、現代の子ども達は決して十分に家で本を読んでいるとは言えません。マンガを読書とカウントしたとしてもです。テレビ番組やインターネットの動画コンテンツが充実し、自分のペースで言葉を読み、話し、表現するという機会は減っているでしょう。

そうした時間を確保するという意味では音読や本読みの宿題は効果があるかもしれませんね。

その他の宿題

ここでざくっとまとめてしまいますが、それぞれ宿題には意味・意図をもって出している場合が多いでしょうから、効果が皆無ということはないかもしれません。多くの場合が「それなりに」は効果が期待されるであろうし、「ないよりはあったほうが良い」のかもしれません。

では、宿題はやっぱりきちんと課したほうがいいのでしょうか。

宿題の価値

さて、宿題を課すことにそれなりには効果があるのかもしれないと考えたところで、宿題を課すことの価値を考えてみたいと思います。

効果と価値、何が違うんだということについて、ここでは

効果」は宿題を課すことによって適切に課題に取り組んだときに得られるであろう教育的効果

価値」は宿題を課すことは大切なことなのかどうか、宿題そのものが与える影響から考えられる効果の是非

といった捉え方をしたいと思います。

つまり、宿題も担任の狙い通りに子ども達が適切に取り組むことができれば一定の「効果」は期待できるであろうことは私は否定しません。

一部の論文では宿題による教育効果は保障されないというような論調もありますが、それは一定条件下での調査であったり、今から論ずる「価値」を検討する際に考慮する家庭の差異を含んだ結果だと思いますので、そのあたりをクリアすれば、宿題そのものはシンプルに学習活動ですので、効果は期待できると言えるでしょう。

ただし、その「適切に取り組むことができれば」という一点が、実は非常に難しいのではないかと私は考えます。宿題は学校の課題であっても、家庭でする以上、家庭学習になりますので、家庭の教育力に左右されます

  • 家庭円満で二親揃って、母親は専業主婦といったちょっと古典的かもしれませんが、昔ながらの日本の家庭における場合
  • 両親はいるが、共働きで子どもの教育にもあまり関心がない家庭
  • 片親で一人っ子の家庭
  • 兄弟が多く下の子の面倒に手を取られる兄弟構成
  • 塾通いで課題漬けの毎日
  • 精神的に不安を抱えやすい体質で学校で精神力を使い果たして家ではほとんど寝ている子
  • 普段は宿題にも取り組めるが、ある日だけなんらかの事情でできない子
  • 発達障害等で家庭ではなかなか宿題に取り組めず通常の子の何倍も時間がかかる子

その他、あげるときりがありませんが、子ども達の家庭の状況は千差万別です。こうした状況が家庭教育には必ずあり、学校で教育を行うことの意義とはこうした背景を切り離し比較的公平な環境を提供することができるというところにあるでしょう。

その学校が、公平とは言い難い教育背景のある家庭教育の場に一様な課題を課すことはまさに「本末転倒」ではないでしょうか。学校教育は学校教育環境下での学習を前提として指導していくということが大前提にある。ということを忘れてはいけません。

宿題を課すことの価値は、子ども達一人ひとりの家庭学習に大きな負担を与えるということを考えたとき、決して良いものとは言い切れないのではないか、と思うのです。

宿題は課すべきではない?

つまり、宿題は不要!ってことでよろしいでしょうか。

となると、ちょっとぶっ飛んでますよね。

決して、宿題を課すな!と言っているわけではないんです。

いずれ宿題という概念がなくなって、子ども達が自発的に、各々に家庭では家庭の、自分の好きな学習課題に取り組む、なんていう未来がくればそれは願ってもないことなんじゃないかなって思うんですが、現段階でそれは誰にでもできることではないでしょう。

できる方法はあるんですが(また別の記事で紹介できたらと思います)、様々な工夫やその他の学級経営や授業の展開なども絡めた抜本的な取り組みになってきますので、ここでは割愛します。

今現在、目指すところとしては、ありのままの皆さんの現場を想像すると、「他の先生との兼ね合い」や「保護者からのニーズ」などなど、「宿題を無くす」というには少しハードルを感じてしまう現場が多いでしょうね。

課さなくて済むなら課さなくていいんですが、やはり、冒頭で述べた宿題の意図なんかを意識すると「課す」ということ自体はまだ否定できないかもしれません。

ではどうすればいいのでしょうか。宿題の課し方について、次回はまとめていきたいと思います。

次回は、「宿題を課すにあたってのポイント、宿題を通して子ども達とつながろう」といったテーマでまとめたいと思います。

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